Profile

基本情報

【名前】
小林 奈保子(ナホちゃん)

【出身】
新潟県柏崎市

【生年月日】
1985年10月7日生まれ(36歳)

【職業・所属】
家業の工務店、小林建工で勤務しております。

小林建工 デザイン事業部
Atelier de fille d’artisan(アトリエ ドゥ フィーユ ダルチザン)

-エピソード-
私の原風景に、昔ながらの職人である父が、一件の住宅を「まかった(=全て任せて下さい)」と言って仕事を請負っていた風景があります。

この父の姿から、その私も一件一件のお仕事に責任を持って、しっかり向き合いたいと思うようになりました。お客様を一番に考えるなら、効率化する、分業という考え方は合わない、建築からインテリアまで私が一貫してトータルコーディネートしたいと考えています。

そのため、建築からインテリアまで、私が一貫してデザインするブランド、Atelier de fille d’artisan(アトリエ ドゥ フィーユ ダルチザン) を立ち上げました。Atelier de fille d’artisanの意味は、「職人の娘のアトリエ」です。

□新築部門:Maison F.A.(メゾン エフア)
□リフォーム・リノベーション部門:Renogie(リノジー)
□模様替え部門:Decoreve(デコレーヴ)
から構成されております。

【担当業務】
Atelier de fille d’artisan(アトリエ ドゥ フィーユ ダルチザン)の
住空間デザイナーとして、
主に住宅の設計、インテリアコーディネートを行なっております。
(たまに店舗のインテリデザインも行なっています。)
※施工は小林建工の大工

HP・SNSの更新等の宣伝業務もやっております。

□Atelier de fille d’artisan/HP/SNS

HP

Instagram

 

□Maison F.A./HP/SNS

HP

Instagram

 

□Reneige/HP/SNS

HP

Instagram

 

□Decoreve/HP/SNS

HP

Instagram

 

【学歴】
□長岡造形大学造形学部環境デザイン学科 卒業
□日本女子大学家政学部生活芸術学科 卒業(通信教育課程)
□井上千保子インテリアデザインスクールにて、インテリアカラー、インテリアデザイン、インテリアパースを学ぶ。

【保有資格】
□二級建築士
□インテリアコーディネーター
□整理収納アドバイザー1級
(整理収納について日頃の研究成果を発表する大会、整理収納フェスティバル2020新人部門において東京代表に選出、研究成果を発表する)
□ルームスタイリスト・プロ
□カラー環境デザイナー(井上千保子インテリアデザインスクール内カラーライセンス)

プロローグ:長野駅にて

友達:「え、なんでナホちゃんちに頼まなきゃいけないの?」

私:「…。」

 

家庭から離れて、ここに来ると、どうしても思い出してしまう。

 

朝7:00長野駅スターバックスコーヒー。

私はいつものスターバックスラテを飲んでいるところ。

7:40発の特急しなの名古屋行きがホームに入るのは、7:30頃…。

スターバックスの顔なじみのスタッフさん。

いつもここで会議をしている美容室の店長さんたち。

あぁここに来るのはもう何回目だろう。

 

私は、家業の工務店に勤務しています。

父と母が経営する、地方の小さな工務店。
父は設計、母は事務をしていて、大工さんを数人雇って、住宅をつくっています。

純和風住宅を得意とする、昔ながらの町の大工さん、といった感じで、地域の人たち、特に高齢層から慕われています。なので、私なんて、近所の大人たちみんなに可愛がられて、地域の大人たちみんなに育ててもらった、という感じです。

家業の工務店の仕事の関係もあって、地元の大人たちとの交流は円滑です。

しかし、自分と同世代の人たちとの関係は散々。地元の大工なんて、バカにされている…!大々的に宣伝しているハウスメーカーと比べられて、かっこ悪いと思われている。子どものなりたくない職業にランクインされるくらいだもんな。苦しいな。

幼少期:職人に囲まれて育ったことが人生の目覚め

私は、工務店を営む両親のもとに、次女として生まれました。

その当時は、自宅の一角に事務所があり、勤務している大工さんはもちろんのこと、出入りしている会社の職人さんに、とても可愛がられて育ちました。大工さんが現場から事務所に帰ってくるのを毎日のように待ち、大工さんが帰ってくると、膝の上に乗って喜んで遊びました。幼児の頃から納涼会、忘年会、研修旅行にも毎年参加するなど、社内外の職人さんと一緒に過ごすことがとても多かったです。

うちの会社には、腕のいい大工さんがたくさんいて、品格のある、純和風住宅を多く建築していました。特に床の間を美しく仕上げられることに定評がありました。住宅の格を決めるのは、床の間です。その床の間を綺麗に仕上げられるということこそが、腕の良い大工の証です。

「自慢の床の間だ。綺麗な仕事をしてくださって、ありがとうございました。」

畑で採れた野菜など、手土産を持ちながらお客様が事務所に来て、満足そうにお茶を飲んで、そう言って帰っていきました。このように、大工のみんなが、お客様に最高の褒め言葉で褒められていた様子を、薄っすらと覚えています。特に、高齢のお客様からは、その質の高い技術が非常に喜ばれていました。

職人さんが身近にいたとことで、
技術を持っている人ってかっこいいな、
技術を持っていると、
人に喜んでもらえるんだな、
と思って育ちました。

小学生:部活で技術を磨く

私は、小学生になりました。
小学2年生の冬。母に、「バレーボール行ってみない?」と、小学生バレーボールの練習に誘われました。母は、地元の婦人バレーボールチームに所属していました。チームでは、前衛のレフトポジションを任されている、エースアタッカーでした。娘にバレーボールをさせるのが夢だったようです。

実際練習に行ってみると、案外楽しいものでした。軽いボール投げから始まり、アンダーハンドパス、オーバーハンドパス、サーブ…と、遊びながら練習を積んでいきました。いつの間にか、私はバレーボール部に入部していました。

当時、小学校2年生から部活に入る子は珍しかったので、同級生で組んだチームではなく、一つ学年が上の先輩たちのチームに入れてもらっていました。先輩たちはとても強かったです。県大会でも、必ず3位以内に入っていて、自慢の先輩たちでした。その中に混じり、試合にも出場しました。試合では、毎回ピンチサーバーとして起用されました。期待に応え、サーブで必ず得点をしました。すると、大好きな先輩たちがすごく喜んでくれたのです。

一点得点できることって、こんなに嬉しいものなのかぁ。

先輩たちと、どんどん試合に勝っていくことが、面白くて仕方なかったです。
私は、どんどんバレーボールに熱中していきました。うまくなることが好きでした。誰よりもうまくなるため、月曜、木曜の練習日には、誰よりも早く体育館に行き、誰よりも多くサーブ練習をすることを心がけました。

先輩たちが卒業しても、コツコツと技術を積み上げていった結果、私のサーブだけで得点を重ね、試合に勝つ、ということも度々起こるようになっていきました。県大会や全国大会にも出場。そんな時、家族は決まって、「なおちゃんよくやったねぇ」と、とても喜んでくれて、褒めてくれました。

技術を高めて結果を出すと、
周囲の人が喜んで、感謝してくれました。
そしてそれが私自身の喜びになる、
ということを実感した子ども時代でした。

進路選択〜大学生:努力しても、実を結ばない

高校3年生になり、私は毎日が憂鬱でした。
大学進学の志望校決めが、難航していたからです。

建築系の大学に進ませたい両親と、大学で保育について学びたい私。
高校3年生の中頃になっても、はっきりと進路は決まらずでした。周りはとっくに進路を決めていて、模試に意気込んでいるという、進学校特有の雰囲気についていけなくなり、私は、学校をたまに休むようになりました。

結局、最後まで話はまとまらず、大学は、両親の希望していた長岡造形大学造形学部環境デザイン学科に進みました。自宅から車で1時間、緑豊かなキャンパスがとても美しい、主に公共建築物の建築デザインの技術を学ぶことのできる学校でした。

自分が希望していた進路ではなかったけれど、技術を磨けば、小学生バレーボールの時と同じように結果を出し、評価されるようになるのではないか。

そう、自分に言い聞かせ、前向きに大学に通い始めました。
周囲は、大学デビューと言わんばかりに、サークル活動、バイト、遊びに精を出していました。
しかし私は、二徹、三徹は当たり前、全力でレポートや制作課題に打ち込みました。代返もせずに、真面目に授業も受けました。

大学2年生になると、その姿勢が認められ、授業料が半期免除となりました。

しかし、早い段階で、私は大学が嫌になりました。

特に嫌だったのは、設計課題提出の日です。教室の机に課題を提出して、皆学生は一旦、教室から出ます。その間に先生が課題のチェックをして、成績の良かった生徒の名前だけを黒板に書き出します。私たちは教室に戻り、優秀だった学生の発表だけを聞くのです。選ばれなかった学生は、講評をもらえることもなく、寂しい気持ちのまま、授業を終えます。優秀作品に選ばれた時もあったし、選ばれない時も多くありました。優秀作品に選ばれない自分が恥ずかしかったし、また何よりも、ポツンと机に残された、みんなの作品が、とってもかわいそうに見えました。

設計課題の提出をしていくうちに、段々、”努力して技術を磨いても、実を結ばないこと”に虚しさを感じていくようになっていきました。

思い詰める毎日が続きましたが、ある時、努力し直そうと一念発起します。
まず、とにかくバイトをしてお金をためました。

いつも図書館の本でしか、建築やインテリアデザインに触れていない。
実物を見て、肌で感じる必要がある!

と、考えたからでした。

夜行バスで東京に行き、様々な建築やインテリアデザインを見て回りました。新潟では絶対に味わえない経験で、勉強になりました。

しかし…。
そんな努力も虚しく、設計課題が評価されない日々が続きました。努力しても意味がないのかと、毎日、自問自答しました。

ついに、ストレスから身体を壊し、食事がうまくとれなくなってしまいました。

(設計の授業が終わって)
友人:「ナホ、学食行こう!」
私:「うん…」

(学食にて)
友人:「また素うどん?」
私:「あぁ、うん。素うどんおいしいよねー」

なんて軽く話していたけれど、私の体調は深刻で、実際には、ほとんど何も食べ物が食べれなくなっていました。

”努力して技術を磨いても、実を結ばないこと”に深く傷つき、うまく軌道修正もできないまま、大学を卒業しました。

卒業式の日、これで解放される!と思った開放感を忘れることができません。

技術を磨くため、
努力しても、実を結ばなかった、大学時代。
努力の方向性が間違っていました。
評価されるために、逆算して努力する、
という工夫も必要だった、
と後になって実感しています。

22〜27歳:震災の影響と決意

新潟では、2004年の中越地震、2007年の中越沖地震と、二度の震災がありました。

私も震災からの復興の力になりたいと思い、22歳で、家業の工務店、小林建工に入社。

二度の震災の影響で、家業の工務店は、仕事が激増。住宅の新築、リフォームで猫の手も借りたいくらい忙しかったです。市外から10人程応援の大工さんにもきてもらっていました。

自分たちの技術力は需要があって、
通用している。
みんなに嬉しさを届けられている。

と、思っていました。

また、大学時代の経験から、正しい努力をしないと人に評価されないと薄々感じていたため、人の求めているものに応えられる人間にならなければならないと思い、私は、商工会議所が開催するビジネス研修会に参加するなどして、積極的に過ごしていました。

いつものように、私は、市が開催する、新卒の社員のための研修会に出席していました。

友達:「あ、ナホちゃん、久しぶり!」
私:「あー!×××ちゃん、ほんと久しぶりだね!」
小中と一緒だった女友達と、再会したのだった。
私:「私家業に入ったの。×××ちゃん、何かあったらよろしくね!」

私は重くならないよう、軽くそう話しました。

すると、次の瞬間。とっても厳しい答えが返ってきました。

友達:「え、なんでナホちゃんちに頼まなきゃいけないの?」
私:「…!?」

友人にとって、うちの工務店は眼中になかったのでした。
私は、動揺しました。

昔ながらの町の大工さんとして、地域の人たちに慕われていると思っていた私の考えは、間違っていたのです。

また、こんなこともありました。

(新婚の女友達と食事中)
友達:「最近仕事どう?」
私:「ボチボチだねー」
友達:「私さ、×××(オシャレで押している某ハウスメーカー)の雰囲気が旦那も私もとても好きなんだよね」
私:「…。」

(私の雰囲気を察して、逃げるように)
友達:「あ、新築なんてまだしないよー」
私:「あはは…そうなんだね…ハハ…」

オシャレなハウスメーカーを絶賛する女友達の口調から、”大工はダサい”と思っていることが伝わってきました。苦しかったです。こんなことが、今までにも何度もありました。

もう何回目だろう。自分が生まれ育ってきた環境を侮辱されることは、本当に腹が立つ。けれど、人は、それを平気で言ってくる。

女友達と食事に行った後は、いつも気分が悪かったです。

同世代の女性は、現代的でオシャレ。
求める住宅の視点が、根本的に異なっていたのです。

これがきっかけで、うちの仕事がどうやったら同世代の女性に受け入れられるようになるのかを、私は真剣に考え始めました。が、すぐには結論が出るわけもなく、考えているうちに時は過ぎ、私は27歳で結婚しました。

ある時、私は、自分が入社してからのことを思い返していました。

うちのお得意様である高齢層のお客様の住宅は、震災によって大きな被害を受けたため、建て替えとなる方が多くいらっしゃったこと。

その方たちから主に支持されていたのが、父が得意とする、純和風建築のスタイルだったこと。

しかしこういった高齢層のお客様が、新築し終わってしまうと、今度は、子育て世代へと客層が変化してきたため、純和風スタイルの住宅を必要とするお客様がほとんどいなくなってしまったこと。

うちのお客様の客層も子育て世代に変わってきている。
それなのに、同世代の女友達からの反応が悪い。
今、うちは変わらないといけないのかもしれない。

そうか、これからは、
子育て世代で、また女性である私が、
もっと本格的に設計に携わって、
女性に喜んでもらえるような
住宅を作っていく必要があるんだ。

 

また、同時に子どもの頃のことも思い出しました。

幼い頃やっていた、遊びのことです。

白い紙に様々な色のクレヨンを乗せ、
その上を黒で塗りつぶす。
それを尖ったもので引っ掻いて黒を削り、
カラフルな絵を描いていたこと。

工作の本を買って、
色紙や針金、色テープを用い、
立体の花をリアルに作ることに
熱中していたこと。

私の両親は、そんな私の興味を尊重し、いつも、

「なおちゃんすごいねぇ。」

と褒めて、喜んでくれました。
私は、それが嬉しくて、どんどん自分の作品をつくって遊びました。

 

小学校では、土のついた大根の土を、桶で洗う母の姿を版画で描きました。
母親がモデルになってくれたので、
嬉しくて一生懸命、版画をつくりました。

版画が完成すると、参観日の日に学校に掲示してある版画を見てくれて、

「なおちゃん、上手だったよ。」

と褒めて、喜んでくれました。

 

中学校では、様々な教科の中でも、美術が一番の得意教科でした。

いつも評価は、10段階評価中の10。
美術の成績をいつも両親が褒めてくれて、喜んでくれました。

ポスターデザインコンテストに学年代表として大会に出品した時も、

「なおちゃん、やったねぇ。」

と褒めて、喜んでくれました。

それが嬉しくて、美術の授業に一生懸命に取り組みました。

 

そうだった。
私は元々、美術が、デザインが、好きだった。

 

大学時代、努力しても、デザインで評価されなかったから、デザインは自分に向いていない、評価されないものだと思っていた。

違う。

私は、元々デザインが好きだったし、評価もされていた。

本当にやりたかったことは、
子どもの頃評価されていた、デザインだ。

デザインの力が、今、同世代の女性から、求められているのではないか。

私のデザイン力を高められたら、同世代の女性にも必ず喜んでもらえる。

そう気づくことができました。

28〜36歳:学び直し期

子育て世代の女性に、
住宅デザインを通し、価値提供をしていくことで、喜んでもらいたい。

という想いが強くなった私は、

私のデザイン力を高めることで、子育て世代の女性に喜んでもらいたい。

と考えるようになっていきました。

また、そのためには、住宅建築とインテリアデザイン、
これらをしっかり学ばないと、価値提供できないと気付きました。

こうして私は、住宅建築とインテリアデザインについて学び直していくことを決意しました。

学び直すにあたって、今まで通り働きながら、学んでいく道を選びました。
働きながらとはいえ、学び直すということは、金銭的にとても大変なことでした。
毎月のお給料の約20%を授業料や教材費、交通費などに当てることになりました。

家計は常に火の車。

苦しいけれど、これが私のやりたかったこと。
子育て世代の女性に価値提供をし、喜んでもらいたい。

という強い想いから、一切立ち止まることはせず、学び直しに邁進しました。

 

住宅建築について学ぶ

もっと本格的に住宅デザインに携わって、女性に伝わる住宅デザインがしたい、女性に喜んでもらいたい。

と、思ったものの、私には建築の世界で女性が活躍している姿が、全くイメージできませんでした。

根本的に建築業界は男社会。うちの工務店も母以外全員男性、協力会社さんも男性ばっかり。

…そうだ、建築の世界で活躍している女性から学んでみよう。

建築の世界で活躍している女性から学べる環境に身を置くため、方法を色々と考えました。色々調べていると、日本女子大学に目が止まりました。

日本で、世界の建築業界で、活躍する女性建築家を多く排出している女子大学らしい。また、通信教育課があるので、仕事をしながら、新潟で勉強できる。

私は、日本女子大学に入学することにしました。

通信教育課では、基本、郵送でレポート提出をして学んでいきますが、スクーリング科目というものも存在します。スクーリング科目とは、大学に通学して講義を受けることができる授業です。

スクーリング期間中は、一週間程、目白にある大学の寮に滞在します。授業が終わっても、課題があったりして意外と時間はなかったのですが、合間をみて、私はお気に入り場所に通っていました。

目白台運動公園の並木道を歩いて5分。椿山荘の隣に、フラワーショップ併設のお気に入りのカフェがあります。切妻屋根のかわいい、ナチュラルな外観。富士市で栽培された新鮮な野菜。私はこのカフェのオーガニックな雰囲気がかわいくて、気に入っていました。このカフェにいる時間は、気分が良かったし、エネルギーをチャージする時間にもなりました。

そんな日々も3年が経ち、私は母親になりました。

娘を6月に産み、体調も何となく安定していなかったのですが、予定通り、8月のスクーリングに参加することにしました。お目当ての女性建築士の先生から学ぶためです。

先生は、女性の一級建築士で、自分のアトリエを持ち、住宅設計をされています。予約の取れない女性建築士として、大変ご活躍されている、憧れの存在でした。

何回か講義を受けるうちに、私は、先生とよく話をするようになりました。

授業中、先生はコッソリ、
「住まい手のアクティビティー(動き)に沿った設計をするのよ」
と教えてくれました。

先生は、住宅を設計する時、奥様の毎日の動きに沿って動線計画や収納計画を行なっているとのことでした。

子どもがいて、時間的にも、体力的にもキツい状態の私の心に、この先生の設計手法は、とても響きました。それと同時に、この設計手法は、同じような境遇にある、子育て世代のママたちにとても喜ばれるのではないか、

と感じました。

実際に先生のお宅に伺い、先生の設計を体感する機会もありました。リビングに備え付けられた腰高の造作収納、洗面室のアイロンスペース…実際に体感してみて、自然な動きの中で家事が進むような設計がされていて、女性が住みやすいように設計された家だと実感しました。

目標としたい女性建築家の先生から、学ぶことができた。

32歳の時、日本女子大学を卒業。

インテリアについて学ぶ

インテリアデザインスクールで学ぶ

日本女子大学の卒業が決まり、インテリアの勉強を始めるタイミングがきました。

女性に喜んでもらえるような住宅を作っていくためには、見た目も大切だ。

でも、うちの工務店にはインテリアに詳しい人は誰もいない。

じゃぁ勉強できるような場所に通おうか…。

新潟にはインテリアスクールはないしなぁ…。

そこで、今度は県外のインテリアスクールを探してみました。様々な先生がいる中、名古屋にスクールを持ち、インテリアカラーを専門に指導されている先生に目が止まります。

新潟の人は、あまりインテリアにお金をかける人がいない。

色は、視覚の印象に大きな影響を与える。
インテリアの要素の中でも、
色を味方に付けることができれば、
金額をプラスしなくても、
お客様の心に届くインテリアイメージを、
つくれるようになるのではないか。

インテリアが盛んな名古屋で勉強することができれば、力がつくのではないか。

そう考え、私は、名古屋の井上千保子インテリアデザインスクールに入学しました。

4年の間、インテリアカラー、インテリアデザイン、インテリアパースと学び、インテリアデザインの技術をたくさん習得していきました。

「ガラガラガラガラ…」

来る日も来る日も、キャリーケースにぎっしりとカタログやサンプルを入れて、重いキャリーケースを引きずりながら、名古屋まで通いました。

スクールでは、色・形・素材を見極めることから、インテリアを調和させ、人々が自然と心地良いと感じる空間コーディネートを行なっていく手法について学ぶことができました。

名古屋は、インテリアが盛んな地域なので、ショールームもたくさんありました。しばしばショールームに通い、商品知識をどんどん身につけていきました。

仲間もたくさんできました。スクール後、久屋大通や名古屋駅でよくお茶をしたし、先輩たちに仕事の悩みもたくさん相談しました。

 

18:40名古屋駅10番線。

特急しなの長野行きがゆっくりと動き出した。

見慣れた街並みともお別れだ。

「先生、またね。」

今日で、インテリアデザインスクールの授業が全て終わった。

先生が厳しくて何度も辞めようと思ったし、喧嘩もしたけど、なんとか学びきった。

 

卒業後、インテリアデザインスクールで身につけた技術が、私に大きな自信を与えました。学んだことを、実際の仕事で実践してみたところ、女性のお客様から、”かわいい”と喜んで頂けるようになったからです。インテリアの調和のための技術を学んだことで、空間をお客様の好きな雰囲気で統一することができるようになったのです。

お客様:「かわいい!私、好みの雰囲気言いましたっけ?もう奈保子さん、全部分かっていらっしゃるから、コーディネートは全部お任せします。」

私:「ありがとうございます。」

女性は自分の好みのものに対し、”かわいい”という言葉で表現をします。

お客様の”かわいい”を私や職人の技術で叶え、女性のお客様から喜んで頂けることが、今の私の喜びになりました。

・自分が身につけてきた技術、知識が伝わること
・実際にデザインした住空間がお客様の心に届き、喜んで頂けること
が、私自身の喜びになる、ということを実感しました。

模様替え講座でも学んでみた

日本女子大学やインテリアデザインスクールに通いながら、新潟で、模様替えについても学びました。

“お部屋が好きになる”がテーマのこの講座は、とても楽しかったです。

小物の飾り方や部屋のレイアウトの仕方…など、お部屋を自分好みに、さらに住みやすくするための方法をたくさん学んでいきました。

女性がよく使う、”かわいい”という言語について、自分がそう感じる時の共通点を見つけ、周りの受講生と話し合う時間もありました。

「私はこのハンカチがかわいいと思います。理由は…」

「私はこのペンケースがかわいいと思います。理由は…」

みんなの話を聞いているうちに、みんなそれぞれに、”かわいい”という視点は違っているけれども、一人一人の中で、”かわいい”の世界観は確かに定まっている。

と、気づくことができました。

36歳:技術と知識を身につけた代償

こうして私は、住宅設計やインテリアデザインの技術・知識を身につけました。

しかし、新潟という地方から、東京や名古屋といった都市部に定期的に学びにいっていたため、これらを習得するには、莫大な費用と時間がかかってしまいました。

仕事をしながら学んではいたが、全て自費で学んだため、500万円あった貯金は、底をついてしまいました。

私:「今月も支払いキツいや。」
夫:「(渋々)貸そうか…?」
カードの支払日近くになると、夫の顔色を伺う、こんなやり取りが、何年も続きました。

時間もとってもかかりました。

日本女子大学入学から、インテリアスクール卒業までに、約8年(!)、
長岡造形大学入学から、インテリアスクール卒業までには、実に約18年(!)

多くの時間とお金をかけてまで、住宅設計やインテリアデザインの技術・知識を身につける。それを支えていたのは、単なるプロとしての意地でした。

情報を得るには、時間もお金もかかり、
時に、家庭を不安定にさせることもありました。

しかし、全てはお客様に喜んで頂くため。

後悔のない行動でした。

エピローグ:技術を伝えることがやはり喜び

幼い頃から職人に囲まれて育ってきた私。

うまくなること、技術を磨くことが大好きで、

技術を高めて結果を出すと、周囲の人が喜んでくれた子ども時代。

努力して技術を磨いても、実を結ばず挫折した、大学・新卒時代。

もっと本格的に住宅デザインに携わって、

女性に伝わる住宅デザインがしたい、

女性に喜んでもらいたいと一念発起した。

時間もお金もかかり、大変だったけれど…。

自分が身につけてきた技術、知識が伝わること。

実際にデザインした住空間がお客様の心に届き、喜んで頂けること。

住宅デザインに関する技術をもって、

女性のみなさんに、

特に同世代の子育て世代の女性のみなさんに喜んで頂けることが、

今の私の大きな喜びです。